市民公開講座 『脳の神秘への挑戦!』 〜高校生のための脳科学入門〜

演題名

「傷ついた脊髄を治すことはできるのか」

講演要旨

皆さんは脊髄が傷つくと一体どんなことが起こるのかを想像したことがあるでしょうか?スポーツ中の怪我や交通事故で頚や腰に強い力が加わると、その瞬間に骨と一緒に脊髄が損傷されます。脊髄は脳の命令を手足に伝える大事な神経ですから、健康なときには当たり前と思っていたこと、たとえば自分の足で立って歩く、自分の手で食事をする、トイレに行って排泄をする等のことが、その一瞬の出来事により何一つできなくなってしまいます。予想をはるかに超えた厳しい現実が患者さんの前に立ちはだかります。そのような患者さんに対して私たちは手術を行い、その後リハビリも行いますが、残念ながら傷ついた脊髄の機能を回復させることはこれまで困難でした。しかし神経科学の目覚ましい進歩により、これまで不可能と考えられてきた脊髄の再生はもはや夢物語ではなくなりつつあります。本講演では損傷脊髄に対する再生医療を実現するために、これまで私たちが行ってきた基礎研究の紹介と今後の展望について話したいと思います。

先ず、なぜ損傷した脊髄は再生しないのかについて話したいと思います。脊髄に外力が加わるとその機械的な刺激により脊髄の中の神経細胞は死滅し、神経線維は断裂します(一次損傷)。この機械的刺激による損傷の程度は怪我をした瞬間の外力の大きさに依存します。その後、損傷部に様々な炎症細胞が集まってきてそれらが神経毒性をもつ物質を放出し、その化学的な刺激により機械的な刺激から免れた神経細胞や神経線維が壊れていきます(二次損傷)。一度壊れてしまった神経細胞は残念ながら再生しません。さらに、断裂した神経線維はその再生を阻む物質が損傷した脊髄の中に存在するために再生しないことが分かってきました。

これらの病態を踏まえて脊髄損傷の治療のアプローチは、1)二次損傷を最小限に食い止める治療法(急性期の治療)と2)死滅した神経細胞を補充し、断裂した神経線維を再生する(亜急性期〜慢性期の治療)に分けることができます。1)の治療法としては、現在臨床で用いられているステロイド大量療法がありますが、その有効性と副作用のため見直されつつあります。そこで、私たちは損傷後脊髄内で増加する炎症性サイトカイン(神経毒性物質)であるインターロイキン6に注目し、その受容体の抗体を用いて炎症を沈静化することで機能回復が得られることを明らかにしました。また、神経栄養因子の一つである肝細胞増殖因子を用いて損傷後の二次損傷から神経細胞や神経線維を守ることにより機能回復が得られることを報告しました。2)の治療法としては、いま最も期待が大きい幹細胞移植治療があります。神経細胞の元となる神経幹細胞を移植することにより、神経線維が再生し失われた運動機能の回復が促進されることを私たちは明らかにしてきました。さらに、神経線維の再生を阻害する物質の一つであるセマフォリン3Aを抑制する物質を開発し、損傷脊髄に対して投与すると断裂した神経繊維が再生し運動機能の回復が得られることを報告しました 。

これらの治療法を組み合わせて行うことにより、脊髄損傷に苦しむ患者さんたちが、近い将来もう一度自分の足で歩けるようになれる日が必ず来ると信じています。これまでに治せなかった病気や怪我を治すためには医学と科学の両方の進歩と、それを結びつける研究が重要です。そんな研究に皆さんが少しでも興味を持ってくれるような話ができればと思っています。

講師略歴

中村雅也

1987年慶應義塾大学医学部卒業、 同年慶應義塾大学医学部整形外科学教室入室、1998〜2000年米国ジョージタウン大学神経科学部門研究員、慶應義塾大学整形外科助手を経て、2004年より同専任講師。臨床では脊髄疾患を中心に年間約100件の手術を行い、また基礎研究では脊髄損傷で苦しむ患者さんたちが何とかもう一度自分の足で立って歩くことを目指して、幹細胞移植を中心とした研究を精力的に行っている。